まんじゅうスゴイ。

わくわくレタッチは2006年突入。この年の三月から画風と方向性が明確になり、誰の心にどんな感情を起こさせたいか?というのがはっきりしている。またコンセプチュアルな作品群も形成されるている。三十歳を前にジーザスってありがちすぎて笑える。

この頃の世間の写真はポップな物が多くて、コンセプチュアルであってもテーマが古くさかったりしてた。時代にコミットした作品は制作費が組織から迅速に出せる仕組みでないと扱いづらく、結果としてはBBCNHKディスカバリーのような広告費や視聴料を自動的に受け取っている予算に余裕のある組織のディレクターが扱う事が多い。そういう意味では速度のない美術館や写真集を発表の場にしていた当時の写真家に旬を追わせるのは無理があるのでしょうがないか。寺山修司じゃないけども、速度の獲得は芸術の重要な要素だけど、このころの写真はポップさで時間軸の差をキャンセルしていたのだなあ。

ある種の普遍性、対立や因果を表現するのが「写真を撮ってまとめて発表する」という速度では限界なのかもね。ああ、後はパンツ(青山裕企)や笑顔(さっちん)のような表現が福本伸行が言う「道ばたで、たんぽぽを見つけたような気分。」で普遍的なのかな。対立、因果、人間こんなところか。なんか週刊少年マンガ誌のテーマみたい。

(余談。荒木経惟のさっちんの威力は凄まじく、鬱病の女性にプレゼントしたら一発で直った。)





2015年現在の写真の世界はネットで速度を獲得し写真集はフリッカーなりタンブラーなりのwebへ、箱物としての美術館は倉庫と公民館程度の存在になった。先を行くヨーロッパの美術館の多くが無料である、でないと人が来ない。そりゃお金払うなら観劇やコンサートでも行くわね、僕でもそうするし。つくづく「劇場のあるところに劇があるわけではない。劇のあるところが劇場なのだ」という寺山修司の言葉を実感する。


美術館が倉庫と公民館の役割程度の存在になったのは、象牙の塔の権威と貴族の権力に閉ざされ、我々一般人は見る事も飾る事も許されない所謂サロンから解放されたという事で、誠に喜ばしい事である。公民の字の通り名誉ある市民なら誰でも見に行けるし、参加もできる。表現の自由はいいね。

サロンから公民館への変異の中で作品も変わっていくのは当然で、誰か特定の権威者や貴族を狙い打ちにする「美味しんぼ第四話で大富豪の京極さんを質素な食事で迎える」のような小技は効かせなくなり、誰でも感じる事ができるポップか、公共の利益になるような事(ベネトンのようなね)の両極へ。

杉本博司のように禅を描いたり、胡蝶の夢を永津広空(だと思う。違ったらごめん)が描いていたりと東洋思想を描く手もあるけども、宗教も公共の利益なのでやっぱり大枠は二択なのかね。




まんじゅうは食べ終わったら忘れた。








http://perfectrices.tumblr.com/の今日の一枚。

f:id:perfectrice:20150410175358j:image

2006年。西新宿。かどやホテル。毎日ヨドバシカメラでフィルムを現像のために渡し、現像が終わったフィルムを受け取り、このホテルのラウンジでホットショコラを飲みながら検討していた。当時にしては珍しく無線無料スポットでいつ行っても席が空いていたので便利なサロンだった。